「語り伝えられたこと」 01.09.16 コリントT11:23〜26
教会は、主イエス・キリストの死を告げ知らせてきました。主イエスの生涯を告げ知らせる以上に、
十字架を掲げ、十字架の死を語り続けてきました。そこに救いがあり、希望があるからです。
主イエスの十字架は、私たちの死を取り込んでしまう、神のひとり子の死でした。
私たちの死を包み込み、私たちの死と堅く結びついています。
私たちは主の死と無関係ではありません。
主は十字架にかかられる前夜の、最後の晩餐の時に、ご自分の死の豊かさ、広さ、大きさをについて
示されました。裂かれたパンをご自分の体としておっしゃいます。
「これはあなた方のための私の体である」と。どういう事でしょうか。
あの日十字架で、罪人の死を迎えたのは私たちです。主が私たちの罪を一切担い、私たちの罪人としての
死を先取りしてしまわれました。主の死というよりも、主は私たちの死を死なれたのです。
そのことによって、私たちの罪人としての死はなくなりました。
また、主イエスの葬られた墓は、私たちの墓です。
私たちの罪、汚れ、愚かさを抱えて死なれた主は、墓の中にそれらを持っていき、葬ってしまわれました。
それによって、神さまとの関係も変わってしまいました。
私たちの罪がキリストの死と共に葬り去られてしまったゆえ、私たちは罪なき者とされたからです。
主イエス・キリストが世に来られたのは、このことをなしとげられるためです。
ご自身が私たちのために十字架にかかることによって、私たちが神に捨てられてしまうような死、滅びへと進む
死を迎えることがないようにするためです。
そのような死であったことを信じ、それを教会は喜んで語り伝えてきました。
永眠者記念の礼拝ですがこれらの方は、滅びの死を迎えた方ではありません。
主の死に連なっている方です。これらの方の罪、汚れは、主が担って死に、主の墓に葬ってしまわれました。
それゆえ、「永眠」されている方です。
さらには、主が来られた時には、主が復活へと進まれたように復活の命に目覚める方です。